(九)はじめに ── 「作品にすらなっていない」もの ある作品を「よい」と評価するひとは、必ずそうでない作品を知っています。そのひとは作品を評価するなにがしかの基準をもっています。それで、その基準が埒外にはじき出すものが必ずあります。ここでの「そうでない作品」というのがまだ十分に譲歩した表現だということも断わっておいた方がいいでしょう。なぜなら、それらのほとんどは「作品」にすらなっていないからです。そうして、世のなかには「作品にすらなっていない」ものがゴマンと流通しています。 そこでまたいいますが、書店員が「手書きPOP」で店頭に並ぶもののなかでのどれかを推すという行為は、べつのどれかを「そうでない」作品であると認識したうえでいっているわけです。そういう認識 ── あれとこれとは確実に違うという認識 ── なしに「手書きPOP」を書いているような無邪気な書店員がもしいるとすれば、そのひとの書くものはまったく信用に値しません。まさか、その店頭に並んでいるものの全部が素晴らしくて、なかでも特に素晴らしいものにPOPをつけているのだなどと思っている書き手はいないでしょうが。
また、もちろんずっと以前からそうではあったんですが、特にこの数年というもの、うんざりするほど氾濫していることば、読者が作品に求めている「感動」についても触れておきます。いまは「感動」ということばが非常に狭い意味でしか使われていない、それは誤りだ、とまず私は思いますし、「感動する」というのは、実は「傷つく」ということだ、と思っています。それは、読者の心の襞を傷つけたり、抉ったりしているはずだと思うんです。痛いけれど、気持がいいということのありうるのを、承知しているひとは多いはずではないのか、と私は不審に思います。相手の乱暴だけれども、それがこちらの快感に直結することがある、とか、大きすぎて自分には受け入れられないと思っていたものを、結局自分が非常なよろこびとともに受け入れてしまえている、ということがあるのじゃないでしょうか? 不愉快な感動、冷たい感動、恐ろしい感動、嫌悪に満ちた感動というものがあるんです。感動というのは、そうした「受傷体験」の総称なんですよ。だから、いわゆる心の癒され、暖まる、── そうして涙の止まらない(しかし、実はそのとき、まさにあなたは大いに傷ついているんです)── ものだけを感動というのじゃありません。 たとえば、次の引用を読んで、どう思いますか?
こういうものに私は激しく感動します。これを読んだとき(だいぶ以前にべつの訳で読んでいたんですが)私は、突き上がってきた強烈な喜びに声を出して笑ってしまったんですね。 私はこうも書きました。「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけないというのが私の考えです」。 作品の「よい・悪い」と自分の「好き・嫌い」とをごっちゃにして、「いや、そんなのはひとそれぞれだよ」というひとが(ものすごくたくさん)います。はっきりいいますが、この点に関してその常套句「ひとそれぞれ」を用いることは罪悪ですらあるだろうと私は考えています。それは「すり替え」です。いいですか、作品はあなたのためにあるのじゃありません。作品はあなたに合わせません。あなたが作品に合わせるんです。それでこそ「感動」が生じるはずなんです。作品があなたのところに降りてきてしまったら、「感動」は生じないでしょう。作品があなたのところに降りてきてしまっているにもかかわらず、あなたが「感動」したなどと思うなら、あなたは「すり替え」を行なってしまっているんです。あなたが作品のところにまで上がっていってこそ「感動」することができるんです。つまり、ここでは、あなたが変化するということが大事なんです。 さらに、べつの引用。
ほんとうにくだらない作品(それは実は「作品」とは呼べない・「作品」以前のものなんですが)に「こんなに素晴らしい本をいままで読んだことがない!」なんていうひとがいる ── 確実にいます。私はある出版社でそういう「読書カード」(出版社が本に挿みこんでおいて、読者からの郵送を期待する。それの期待通りの返信)を山ほど読みました ── んですが、あなたはこれまでいったいなにを読んできたのか? といいたくなるわけです。好みというのはしかたがありません。それはもちろん「ひとそれぞれ」なんです。しかし、それとはまったくべつのところに作品の「よい・悪い」の基準があるんです。 ということは、つまり、この作品を自分はまったく好かないどころか大嫌いなんだけれど、非常に高いレヴェルのものであることは認める、ということはある。また ── これはかなり譲歩した表現になりますが ──、ほんとうにばかばかしいもの(「作品」とは呼べない・「作品」以前のもの)だとわかっているのだけれど、もう涙が止まらなくて止まらなくて……ということだってあるわけです。 そういうわけで、私がなにをもって作品の「よい・悪い」を測っているか、いくらかでもいってみることにしますが、その前に、またまた以前の記述から引用をしてみます。
もうひとつ、
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